サマディとは、"無になる"ことです。人間には、雑念が一切ない集中状態が起こりえます。この状態を、ヨガではサマディと呼んでます。 日本語では「三昧」(さんまい)と書きます。「読書三昧」「仕事三昧」などのように、一つのことに集中することを意味します。

ヨガだけでなくサマディは、生活のあらゆるシーンに存在しています。音楽をきく、絵をかくなど、これらを無心に行うときも、サマディに近い状態です。 瞑想だけでなく、ふだんの生活のなかでサマディの状態をつくることも大切だとされます。

瞑想におけるサマディ

瞑想におけるサマディとはどんなものなのでしょうか。世界一のヨガ教典と言われる、「パタンジャリ教典」には、こう書かれています。
「瞑想におけるサマディとは、自分の内部と外の世界を断ち切るような集中状態である。 五感の働きを外界と内部とに分離させて、雑念を取り去った状態であり、これによって、物質的執着を手放すことができる」

主観と客観が一体に

サマディの状態になると、主観と客観が一体になると言われています。ヨガ経では「思念の対象ばかりが現われていて、思念自体はなくなってしまったかのような状態」といっているのは、まさにこのような経験をさしているそうです。このときの心のはたらきを「観」といい、その経験を「英智」(プラジナー)といいます。

精神の成熟

ヨガのトレーニングを重ねていくと、心の中からすべての混乱や衝突が追い払われます。 精神が疑念から静慮へと成熟し、魂が目覚めていったときに、おのずとサマディの境地が現われてくるのだそうです。

サマディまでのプロセス

サマディに至るまでにはいくつかのプロセスがあるとされます。 初めの段階では、対象への意識や深い悦びを感じますが、 だんだんと体験が深まるにつれて、主観的な意識が薄くなっていきます。 やがて対象と共に主観面の意識、感情、人格感が消え去ります。これが究極のサマディです。 この主客両面共に消え去った状態はしばしば「空」とか「無」とかいう言葉で表現されています。